供給はそれ自体の需要を生む — 古典派の世界像
不況のとき政府は何をすべきか。何もするな、というのも一つの答えである。十九世紀から二十世紀初頭まで、経済学の標準はこちらだった。
その背骨にあるのが、フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイの命題である。のちにセイの法則と呼ばれたこの考えは、供給はそれ自体の需要を生む、と要約される。物を作る行為は同時に誰かの所得を生み、その所得が別の誰かの作った物を買う。だから経済全体で売れ残りは永続しない。
では失業はどうか。労働もまた市場であり、労働が余るのは賃金が高すぎるからだ。第3講のとおり、超過供給があれば価格は下がる。賃金が下がれば企業は雇いやすくなり、働きたい人はやがて働ける。失業が長引くのは、組合や法律や慣行が賃下げを邪魔するからだ。
だからこの立場では、政府の介入は有害ですらある。市場が自力で見つけようとしている正しい価格を、政府が押しとどめてしまう。痛みを長引かせるのは調整ではなく、その妨害のほうだ、と。
何年経っても戻らなかった — ケインズの反論
この世界像に、現実のほうが反論した。1929年に始まった大恐慌である。アメリカの失業率は四人に一人に届き、何年経っても戻らなかった。
イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』で問うたのは、そこである。市場が自動的に完全雇用へ戻るのなら、なぜ十年近く戻らないのか。
答えの中心が有効需要である。セイの法則は稼いだ所得が使われることを前提にするが、先行きが不安なとき人は貯め、企業も売れる見込みがなければ設備を増やさない。誰かの支出は誰かの所得なのだから、皆が控えれば所得が減り、さらに支出が減る。経済は失業を抱えたまま落ち着きうる。均衡は一つではない。
賃金が下がれば済むのではないか。ケインズは二つを言う。一つは賃金の下方硬直性で、賃金はそう簡単に下がらない。もう一つはより厄介で、仮に下がっても救われるとは限らない。賃金は企業には費用だが、働く人には所得であり、一斉に下がれば買う力も一斉に下がる。
金融政策ではどうか。ケインズが指摘したのが流動性の罠である。金利がこれ以上下げられない水準に来ると、金融政策は空回りする。
「長期的にはわれわれはみな死んでいる」——この一句は刹那主義として引かれがちだが、文脈は違う。長期には市場が調整するという主張への応答であり、その長期のあいだ失業している人間はどうなるのか、という切り返しだった。
乗数と、古典派からの再反論
需要が足りないなら政府が支出して埋めればよい。効果は支出額にとどまらない。政府が道路を作れば、建設会社の従業員がその所得で買い物をし、それが小売店の所得になる。これが財政乗数であり、その大きさが論争の核心になった。
古典派は黙っていなかった。第一にクラウディングアウト。政府が借金で支出すれば、民間が使えたはずの資金が吸い上げられ、金利が上がって民間投資が締め出される。
第二にリカードの等価定理。ロバート・バローが1974年に定式化した主張では、人々は政府の借金がいずれ増税で返されると見越し、その分を貯蓄に回す。減税しても消費は増えない。
第三に、ロバート・ルーカスが1976年に突きつけたルーカス批判。政策が変われば人々の予想と行動が変わり、関係そのものが変わってしまう。だから過去のデータから推定した関係で政策の効果は予測できない。ここから合理的期待の理論が出てくる。
大恐慌の解釈にも反論が来た。ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツは1963年の研究で、その深刻化は市場の失敗ではなく、銀行の連鎖倒産を放置し貨幣供給を三分の一も収縮させた中央銀行の失敗だと論じた。市場が壊れたのではない、政府が壊したのだ、と。
日本という実験場 — 反事実という壁
日本の1990年代以降は、この論争の最大の実験場になった。バブル崩壊後、繰り返し大規模な財政出動を行い、金利をほぼ零まで下げた。それでも停滞は長く続いた。
ここに、実証だけでは決着しない理由が現れる。同じ事実が二通りに読める。効かなかったのだ、あれだけ使って停滞したのだから、と。だが、なければもっと悪かったのだ、落下を止めたからこの程度で済んだのだ、とも読める。
どちらかを確かめるには、財政出動をしなかった日本を観察するしかない。それは存在しない。これが反事実の問題である。国を二つ用意して片方だけに政策を施すことはできず、2008年の世界金融危機の後も各国が同時に対応したため、対照群が残らなかった。
何がぶつかっているのか
表向きの争点は乗数の大きさという数字に見える。だが、その下にもっと動かしがたいものが二つ埋まっている。
一つは、市場の自己調整能力をどれだけ信頼するかである。放っておけば戻ると考える者と、戻らずに固まりうると考える者では、同じ失業統計が違って見える。事実認識のようでいて、確かめきれないがゆえに世界観に近い。
もう一つは価値判断である。仮に市場がいずれ調整するとしても、その「いずれ」までの失業は誰が負うのか。待てと言う人と待たされる人は、たいてい別人である。逆に介入すれば将来世代が債務を負う。どちらの立場も、痛みを負う相手を選んでいる。
だからこの論争は、良質なデータが揃えば終わる類のものではない。実証は争点を狭められても、市場をどれだけ信頼するかという判断と、誰に痛みを負わせるかという選択には届かない。この見取り図のまま、第9講へ進む。