Midori SocietyPolitical & Social Analysis

マクロの視点 — GDP・失業・インフレ

第3講から第6講までは、一つの市場を取り出して需要と供給、価格、外部性を見てきた。そこでの主役はつねに個々の買い手と売り手だった。本講で視点を引く。経済「全体」を見るとき、個々の市場の話をいくら足し合わせても届かない現象が現れる。その断層を跨ぐのが本講の仕事であり、跨いだ先で待っているのが第8講のケインズ論争である。

足し算では届かない — 合成の誤謬

劇場で前の人の頭が邪魔だとする。あなたが立ち上がれば舞台がよく見える。これは正しい。ところが全員が同じことをすれば、誰の視界も改善しないまま、全員が疲れるだけである。個々に正しい行動が、全員がとった途端に成り立たなくなる。これを合成の誤謬と呼ぶ。

経済学でこれが最も鋭く出るのが、ジョン・メイナード・ケインズの言う貯蓄のパラドックスである。将来が不安なとき、家計が支出を切り詰めて貯蓄を増やすのは賢明な判断だ。だが全世帯が同時にそうすれば、誰かの支出は必ず誰かの所得なのだから、社会全体の所得が縮む。所得が縮めば、各世帯が実際に貯められる額はかえって減りかねない。個人の美徳が全体の失敗になる。

ミクロの理屈をそのまま拡大しても全体は見えない。だから経済全体を見るための、別の指標と別の語彙が要る。それが本講で扱う生産・雇用・物価の三つである。

国内総生産は何を測り、何を測らないか

国内総生産とは、一定期間に国内で新たに生み出された付加価値の合計である。付加価値にこだわるのは二重計上を避けるためだ。製粉業者が小麦を五十円で買って小麦粉を八十円で売り、パン屋がそれを二百円のパンにする。売上を足せば二百八十円だが、新たに生まれた価値は二百円分しかない。だから各段階で、売上から仕入れを差し引いた分だけを数える。

問題は測らないものの多さである。家庭で作る食事と育児と介護は、対価が発生しないので算入されない。内閣府はこうした無償労働の貨幣評価を別途推計しており、その額は国内総生産の二割を超える規模になる。同じ料理でも、外食すれば計上され、家で作れば消える。ボランティアも、余暇も、失われた森林も、そして誰がその豊かさを受け取ったのかという分配も、この物差しは映さない。統計の設計者サイモン・クズネッツ自身が、一九三四年の米議会報告で、国民の福祉をこの数字から推し量ることはできないと警告していた。

一九六八年、ロバート・ケネディはカンザス大学の演説でこう言った。国民総生産は、人生を価値あるものにするもの以外のすべてを測っている、と。戒めは簡素でよい。これは物差しであって、目的ではない。

失業 — 数え方が定義を作る

失業率もまた、測り方が中身を決める。失業者として数えられるのは、働く意思があり、かつ実際に求職活動をしている人だけである。求職を諦めた人は失業者ではなく、労働力人口の外に出る。だから景気が本当に悪いとき、失業率はむしろ下がることがある。この求職意欲喪失者の存在を忘れると、数字を読み違える。

失業には三種類ある。転職の合間に生じる摩擦的失業、産業構造の変化で技能と求人が噛み合わなくなる構造的失業、そして不況で仕事そのものが足りない循環的失業である。政策が減らせるのは主に三つ目で、最初の二つは経済が健全でも残る。ミルトン・フリードマンが一九六八年の講演で論じたとおり、完全雇用でも失業率はゼロにならない。

日本の失業率は国際的に低く見える。リーマン・ショック後、米国が一〇パーセントに達した局面で、日本は五パーセント台にとどまった。だがその内実には、雇用は維持しつつ仕事がない企業内失業と、職探しをやめて非労働力になった人々が隠れている。指標が低いことと、人が働けていることは、同じではない。

インフレとデフレ — 貨幣の価値が動くとき

インフレーションは物価が持続的に上がること、すなわち貨幣の価値が下がることである。害は一様ではない。あらかじめ予期されたインフレなら、値札を貼り替える手間、いわゆるメニューコスト程度で済む。厄介なのは予期されないインフレのほうで、これは富を勝手に移す。固定金利で借りた者の実質的な負債は軽くなり、貸した者と現金で蓄えた者が損をする。極端な例が一九二三年のドイツで、物価は一年で数十億倍になり、パンの代金を紙幣の束ではなく重さで量る事態に至った。

デフレーションは逆に貨幣の価値が上がることだが、望ましいとは限らない。アーヴィング・フィッシャーが一九三三年に論じたように、物価が下がれば借金の実質的な重みは増す。返済のために支出を削れば物価はさらに下がり、負債はまた重くなる。加えて、待てば安くなるとわかっていれば買い控えが起きる。合理的な先送りが積み重なって需要が消えていく。ここでも合成の誤謬である。

日本の経験 — 失われた二〇年

一九九〇年代初頭に地価と株価が崩れたあと、日本の物価は長く下がり続けた。リチャード・クーは、この局面の企業が利益の最大化ではなく債務の最小化を目指していたと論じ、これをバランスシート不況と呼んだ。資産価値が消えても借金は残る。だから企業は儲かっても借りずに返す。日本銀行が一九九九年に金利を実質ゼロにしても、借り手がいなければ効かない。

これが第8講の舞台である。不況のとき政府は何をすべきか、という問いに、日本は二〇年をかけて実物の答案を書いた。その答案をどう採点するかで、ケインズ派と古典派は今も割れている。

合成の誤謬
個々の主体にとって正しい行動が、全員が同時にとると全体では望ましい結果にならないこと。劇場で全員が立ち上がっても誰の視界も良くならない。
付加価値
各生産段階で、売上から中間投入(仕入れ)を差し引いた分。国内総生産をこれで測るのは二重計上を避けるためである。
求職意欲喪失者
働く意思はあるが求職活動をやめた人。失業者に数えられず労働力人口から外れるため、不況期に失業率を実態より低く見せる。
自然失業率(完全雇用失業率)
循環的失業が消えても残る失業の水準。摩擦的失業と構造的失業からなり、ゼロにはならない。
バランスシート不況
資産価格の崩壊で債務超過に陥った企業が、利益最大化ではなく債務最小化を優先するために、金利を下げても借入も投資も増えない状態。リチャード・クーの用語。
全世帯が将来に備えて貯蓄を増やすのは、社会全体にとっても望ましいか。

望ましいとは限らない。一世帯にとって節約は賢明だが、誰かの支出は誰かの所得なので、全世帯が同時に支出を削れば社会全体の所得が縮み、結果として貯められる額も減りうる。これが貯蓄のパラドックスであり、合成の誤謬の一例である。

不況が深刻化しているのに失業率が下がることがあるのはなぜか。

失業者として数えられるのは求職活動をしている人だけだから。職探しを諦めた人は失業者ではなく非労働力人口に移るため、分子も分母も減って失業率が下がる。求職意欲喪失者を見ずに数字だけを読むと実態を取り違える。

国内総生産が増えることと、人々の暮らしが良くなることは同じか。

同じではない。家事や育児、ボランティア、余暇、環境の質、分配のあり方はこの指標に入らず、外食を家庭料理に変えるだけで数字は減る。クズネッツもケネディも同じ趣旨の警告を残している。物差しであって目的ではない。

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