針の工場で起きていたこと
アダム・スミスは1776年の『国富論』を、針の工場の話から始めている。訓練のない職人が一人で針を作るとしよう。針金を伸ばし、切り、先を尖らせ、頭をつけ、磨き、紙に包む。全工程を一人でこなすなら、一日に二十本も作れればよいほうだ、とスミスは書く。ところが同じ作業を十人で分け、工程を一人ずつに割り振ると、十人で一日に四万八千本、一人あたり四千八百本になる。二十本と四千八百本。同じ人間が、同じ道具で、二百四十倍である。
なぜこうなるのか。スミスは三つの理由を挙げた。第一に、一つの作業だけを繰り返せば腕が上がる。第二に、作業を切り替えるたびの段取り替えの手間が節約できる。第三に、これが最も大きいのだが、工程が単純な動作にまで分解されると、その動作を機械に置き換える道が見えてくる。針を尖らせるだけの機械は作れるが、「針を作る」機械をいきなり作ることはできない。
ただしスミスは、分業がどこまでも深まるとは言わなかった。分業の程度は市場の大きさに制約される、というのが彼の命題である。四千八百本の針も、買う人がいなければ意味がない。村の鍛冶屋は何でも屋であるほかないが、大都市でなら靴の踵だけを打つ職人が成り立つ。市場が広がるから分業が深まり、分業が深まるから豊かになる。交換は分業の結果ではなく、前提なのである。
すべてに勝る国が、それでも交換から得をする
得意なことが人によって違うなら、分業が得なのは直感的にも分かる。では、ある人が何をやらせても他人より上手だったら、その人は誰とも組まず、全部自分でやったほうがよいのだろうか。
デヴィッド・リカードは1817年の『経済学および課税の原理』で、答えは否だと示した。彼が使ったのはイギリスとポルトガルの、ラシャとワインの例である。ポルトガルではワインを一樽作るのに80時間、ラシャを一反織るのに90時間かかる。イギリスではワインに120時間、ラシャに100時間かかる。ポルトガルはワインでもラシャでも、イギリスより少ない時間で作れてしまう。どちらにも絶対優位を持っている。
それでも交換すれば両方が得をする。いま両国がワイン一樽とラシャ一反ずつを作っており、イギリスは220時間、ポルトガルは170時間を費やしている。ここでイギリスが220時間すべてをラシャに注げば、一反100時間だから2.2反ができる。ポルトガルが170時間すべてをワインに注げば、一樽80時間だから2.125樽ができる。労働時間は一秒も増えていないのに、世界全体の生産はラシャ2反から2.2反へ、ワイン2樽から2.125樽へ増えた。増えた分の分け方は交渉しだいだが、うまく分ければ両国とも以前より多く手にできる。
比較優位の正体は機会費用である
からくりは、第1講の機会費用にある。
ポルトガルでワインを一樽よけいに作るには80時間が要る。その80時間をラシャに回していれば、一反に90時間なのだから、およそ0.9反が織れたはずだ。ポルトガルにとってワイン一樽の機会費用は、ラシャ0.9反なのである。同じことをイギリスで考えると、ワイン一樽に120時間、その時間があればラシャは1.2反織れた。機会費用はラシャ1.2反。ワインを得るために諦めるものは、ポルトガルのほうが少ない。逆にラシャで見れば、イギリスは一反あたりワイン0.83樽ほど、ポルトガルは1.125樽ほどを諦めており、今度はイギリスのほうが少ない。この「諦めるものが少ないほう」が比較優位である。
絶対優位は他者との比較、比較優位は自分の中での比較である。だから、すべてを他人より上手にできる人にも比較優位を持つ分野が必ずあり、すべてで劣る人にも必ずある。全部で他人に勝てても、全部で機会費用を低くすることは論理的にできないからである。
医者と秘書のたとえで考えよう。ある医者は診察が上手なうえ、書類を打つのも秘書より速いとする。それでもこの医者は書類を秘書に任せ、診察に専念したほうがよい。医者が書類を一時間打つ費用は、その一時間に診られたはずの患者だからである。秘書が同じ一時間を打つ費用は、それよりずっと小さい。二人が分業すれば、診察も書類も以前より多くこなせる。
利益は全体の話、損失は誰かの話
ここで話を終えると不誠実になる。リカードが示したのは「全体として」の利益であって、それが誰に届くかは別の問題である。世界の生産が増えることと、あなたの職場が残ることは、違う命題だ。
デヴィッド・オーターらは2013年の研究で、中国からの輸入がアメリカの製造業雇用に何をしたのかを調べた。中国製品と競合する産業が集まっていた地域ほど雇用は大きく減り、1990年から2007年にかけての製造業雇用の減少のうち、およそ四分の一が中国からの輸入増で説明できると彼らは推計した。この一連の研究は「チャイナ・ショック」と呼ばれている。
さらに重要なのは、そのあとに起きなかったことのほうである。教科書は、職を失った労働者は成長産業へ、別の土地へ移っていくと想定する。だが実際には、打撃を受けた地域で失業と給付への依存が十年以上も続き、賃金も戻らなかった。調整は理論が期待するほど速やかではなかった。
貿易の全体としての利益は本物であり、同時に、特定の町の特定の労働者が払った代償も本物である。この二つは矛盾しない。だからこそ、比較優位が正しいことと、自由貿易が政治的に受け入れられることは別の話になる。理論が示せるのは前者までで、後者に答えるには、増えた分を誰にどう分けるのかという問いを引き受けねばならない。