価格が動くと、数量はどれだけ動くか
弾力性とは、価格が変わったとき数量がどれだけ反応するかの大きさである。需要の価格弾力性は、価格が一パーセント上がったときに需要量が何パーセント減るかを表す。減り方が一パーセントより大きければ弾力的、小さければ非弾力的と呼ぶ。
何がこれを決めるのか。第一に、代替品の有無である。ある銘柄のコーヒーが値上がりしても隣に別の銘柄が並んでいれば需要は逃げるが、水そのものには逃げ場がない。第二に、時間の長さである。ガソリンが急に値上がりしても、来週の通勤経路も持っている車も変えられないから、短期の需要はきわめて非弾力的だ。だが十年あれば、人は燃費のよい車に買い替え、住む場所を変える。同じ財が、短期では非弾力的で長期では弾力的になる。第三に、必需品ほど非弾力的で、贅沢品ほど弾力的である。
弾力性は政策の効き方を左右する。たばこ税がその例だ。喫煙者全体の需要は依存性ゆえに非弾力的で、増税しても本数はさほど減らず税収は上がる。だが経済学者フランク・チャループカらの研究は、若者の喫煙が成人よりはるかに価格に敏感だと繰り返し示してきた。同じ増税が、成人には税を課し、若者には喫煙開始そのものを思いとどまらせる。誰の弾力性かで政策の意味が変わる。
価格上限 — 家賃を法で抑えるとき
価格上限とは、これ以上高く売ってはならないという法的な天井である。天井が均衡より上にあれば何も起きず、意味を持つのは均衡より下に置かれたときだ。買いたい人は増え、売りたい人は退出し、不足が生じる。
不足が生じても、人々が欲しがるのをやめるわけではない。価格が果たせなくなった配分の役を、行列が、縁故が、ヤミ市場が肩代わりする。戦後日本の統制価格がその事例だ。配給だけでは足りず、ほとんどの家庭がヤミ米に頼った。一九四七年、裁判官山口良忠がヤミ米を裁く立場でヤミ米を拒み、配給のみで生活して栄養失調で死亡した事件は、価格を抑えても希少性は消えないことを痛切に示す。品質も落ちる。行列ができているなら、大家が修繕を急ぐ理由はない。
家賃規制はこの構造の現代版である。ニューヨークの規制は第二次大戦中の戦時統制に始まり、形を変えて今日まで残る。経済学者アサール・リンドベックはかつて、家賃規制を都市破壊の手段として爆撃に並べてみせた。経済学者の合意がとりわけ厚い命題の一つである。
では、なぜそれでも支持されるのか。「有権者が無知だから」で片づけると大事なものを見落とす。規制が守るのは効率ではなく、いま現にそこに住む人の生活の連続性だからである。レベッカ・ダイアモンドらの二〇一九年のサンフランシスコ研究がこの緊張を切り出した。規制は既存の借家人が住み続けるのを実際に助けた。だが大家は賃貸住宅を分譲に転換し、街全体の供給は減り、規制の外にいる人の家賃はかえって上がった。効率と分配がぶつかっている。
価格下限 — 最低賃金という山場
価格下限は逆に、これ以上安く売ってはならない法的な床である。均衡より上に置かれると、供給量が需要量を上回って余剰が生じる。労働市場でこれを行うのが最低賃金であり、その余剰とは働きたいのに働けない人、すなわち失業である。
この予測を揺さぶったのが、デヴィッド・カードとアラン・クルーガーの一九九四年の研究である。ニュージャージー州が一九九二年に最低賃金を引き上げたとき、二人は州内のファストフード店を、引き上げのなかった隣のペンシルベニア州の店と比べた。似た地域の一方にだけ制度変更が起きる。これを自然実験として使えば、実験室に近い形で効果を取り出せる。結果は、雇用は減らなかった。デヴィッド・ニューマークとウィリアム・ワッシャーは給与記録による再分析で雇用は減ったと反論した。論争は決着したというより、問いの立て方を変えた。
鍵がモノプソニー、すなわち買い手独占である。ジョーン・ロビンソンが一九三三年に定式化したこの概念は、買い手の側が価格支配力を持つ市場を指す。ある町の雇い主が事実上ひとつしかなければ、働き手に行き場はなく、賃金は生み出す価値より低く抑えられる。この場合、最低賃金は雇用を減らさないどころか増やしうる。
では引き上げは常に安全か。シアトルが二〇一五年から段階的に時給十五ドルを目指したとき、ワシントン大学の研究チームは低賃金労働者の総労働時間が減ったと報告し、カリフォルニア大学バークレー校のマイケル・ライクらは悪影響を見出さなかった。同じ都市の同じ政策で結論が割れた。カードは二〇二一年にノーベル経済学賞を受けたが、受賞理由は「最低賃金は雇用を減らさない」ではなく、因果関係を現実のデータから取り出す方法を確立したことである。
教訓 — 予測は前提の範囲で正しい
持ち帰ってほしいのは、価格規制が善か悪かという結論ではない。モデルの予測は、その仮定が満たされる範囲でのみ正しい、という態度である。
需給モデルは「雇用は減る」と言っているのではない。「多数の雇い主が競争している労働市場で賃金の床を均衡より上に置けば、雇用は減る」と言っている。前半を落として後半だけを唱えれば、科学ではなく標語になる。逆に、カードとクルーガーの一例で需給モデルは死んだと言うのも同じ乱暴さである。
第2講で、モデルは世界の写生ではなく道具だと述べた。道具には適用範囲がある。最低賃金で本当に問われているのは「上げるか上げないか」ではなく「どの地域の、どんな労働市場で、どれだけの幅と速さで」であり、その背後では低賃金で働く人の暮らしと、小さな事業者の存続とがぶつかっている。誰も悪人ではない。一言の正解を探すより、何と何がぶつかっているのかを見つけること。それが介入を論じる作法である。