買い手の側 — 価格が上がれば、なぜ買う量が減るのか
市場という言葉から、魚市場や証券取引所のような場所を思い浮かべた人もいるだろう。だが経済学が市場と呼ぶのは場所ではない。買い手と売り手が価格を通じて出会う関係そのものを指す。まず買い手の側から見ていこう。
行きつけの店の珈琲が一杯三百円から六百円に上がったとする。多くの人は飲む回数を減らすだろう。この「価格が上がれば需要量は減る」という関係を需要の法則と呼ぶ。当たり前に見えるが、なぜそうなるのかを分けて考えると、二つの別の力が働いていることが分かる。
一つは代替効果である。珈琲が高くなると、紅茶も水も値段は変わっていないのに、相対的に安く見えてくる。人は高くなったものから安くなったものへ乗り換える。もう一つは所得効果である。珈琲が高くなると、給料は一円も減っていないのに、同じ収入で買えるものの総量は減る。財布の中身が目減りしたのと同じことが起きるから、やはり量を減らす。この二つが重なるので、価格と需要量は逆に動く。だから需要曲線は右下がりに描かれる。
ここで、初学者が必ずつまずく区別を立てておきたい。需要「量」が変わることと、需要「そのもの」が変わることは別である。値上げで飲む回数が減ったのなら、それは同じ曲線の上を移動しただけだ。ところが、珈琲が体に良いと報道されたらどうなるか。値段が三百円のままでも、以前より多く売れる。このときは曲線そのものが右へずれる。値段以外の何か——好み、所得、他の財の価格、人口——が動いたときに起きるのがシフトである。値段が動いたのか、値段以外が動いたのかを取り違えると、以降の議論はすべて狂う。
売り手の側 — 価格が上がれば、なぜ売る量が増えるのか
売り手の側は逆向きになる。珈琲豆の値段が上がれば、農園はもっと作ろうとする。ここで効くのが第2講の限界の考え方である。作り手にとって、追加の一袋を作る費用は量を増やすほど上がっていく。条件の良い畑から先に使うので、増産のために引っ張り出されるのは条件の悪い土地や、割増賃金の要る労働だからだ。
すると、価格が低いうちは割に合わなかった作り手が、価格が上がると次々に採算に乗る。既存の農園は増産し、新しい農園が参入する。だから供給曲線は右上がりになる。需要と同じく、天候や技術や賃金が動いたときは曲線がシフトする。
均衡 — 望ましい点ではなく、力が釣り合った点
二本の曲線が交わる点を均衡と呼ぶ。ここで価格と数量が決まる。だが大事なのは、なぜそこに落ち着くのかである。
価格が均衡より高いとしよう。売りたい量が買いたい量を上回り、超過供給が生じる。売れ残りを抱えた店は値札を書き換える。逆に価格が均衡より低ければ、買いたい量が上回って超過需要になる。行列と品切れが起き、売り手は値上げできると気づく。どちらの側でも、ずれていること自体が誰かに動く理由を与える。均衡とは、この動く理由が消える点のことだ。
ここで強く釘を刺しておきたい。均衡は「望ましい状態」ではない。綱引きで両側の力が釣り合って綱が止まっている、というのと同じ意味の釣り合いにすぎない。均衡価格で薬が買えずに人が死ぬこともあれば、均衡賃金が生活できない額のこともある。市場が均衡していることと、その結果が正しいことは、まったく別の主張である。前者は記述であり、後者は規範だ。この二つを混ぜないことが、経済学を使うときの最初の作法である。
価格は情報を運ぶ
ここからが本講の山場である。価格の役割は、需要と供給を釣り合わせることだけではない。価格は情報を運ぶ。
オーストリアの経済学者フリードリヒ・ハイエクは、1945年の論文「社会における知識の利用」で、社会が直面している本当の問題を言い直した。それは、与えられた資源をどう配分するかという計算問題ではない。誰も全体を知らないという問題である。どの畑が今年不作か、どの工場の機械が古くなったか、誰が転職を考えているか。こうした知識は無数の人々に散らばっていて、その多くは断片的で、その場かぎりで、本人にすら言葉にできない。中央にどれほど有能な計画者を置いても、この知識を集めきることはできない。集めた時点で古びているからだ。
ハイエク自身が挙げた例が錫である。世界のどこかで錫の新しい用途が生まれたのか、それとも鉱山が一つ潰れたのか。理由は分からない。だが錫の値段が上がると、世界中の錫の使い手が、示し合わせたわけでもないのに錫を節約し、代わりの材料を探し始める。誰も原因を知らないのに、全員が正しい方向へ動く。価格は、分散した知識を一つの数字に要約した信号として働いているのである。
同じことを別の角度から見せたのが、レナード・リードが1958年に書いた「私は鉛筆」という短い文章だ。一本の鉛筆を、鉛筆自身が語る。木を切る人、鋸を作る人、黒鉛を掘る人、船を動かす人——自分を作るのに関わった人は数え切れないが、その全員を知っている者は一人もいない。鉛筆の作り方を最初から最後まで知っている人間は、この世に存在しない。それでも鉛筆は、驚くほど安く、そこにある。
誰も全体を知らないのに調整が起きる。これが第1講で名前だけ出した「見えざる手」の中身である。スミスが比喩で言ったことを、ハイエクは情報の問題として言い直したと言ってよい。ただし、この信号は誰かが上手く鳴らしているのではなく、たやすく歪む。価格を法律で動かせなくしたら何が起きるのか——次の第4講は、この信号を止めたときの話である。