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経済学はどう考えるか — 機会費用・インセンティブ・限界

第1講では、経済学とは希少性のもとでの選択を問う学問だと述べ、その最初の道具として機会費用を手に入れた。だが問いを立てただけでは何も解けない。本講は道具立ての講である。機会費用に、誘因と限界という二つを加え、さらにそれらをどう使うか——モデルという単純化の作法と、それをどう検証するか——を揃える。ここで揃えた三つの道具を、第3講以降は市場という具体的な舞台に当てていく。

縮尺一分の一の地図は役に立たない

経済学者はまずモデルを作る。そのモデルには、聞いた人が呆れるほど非現実的な仮定が入っている。消費者は自分の好みを完全に知っている、情報は行き渡っている、といった具合だ。学び始めた人がつまずくのはたいていここだ。この違和感は健全だが、答えは地図にある。

アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの寓話に、縮尺一分の一の地図を作った帝国の話がある。その地図は帝国と同じ大きさになり、役に立たず、砂漠に打ち捨てられた。地図が使えるのは、それが写生ではないからだ。地下鉄の路線図は駅の実際の位置を大きく歪めるが、乗り換えを知りたい人にはそのほうが有用だ。そこに等高線や建物を描き込めば、精密にはなるが路線図としては劣化する。

モデルも同じで、現実の複製ではなく、特定の問いに答えるための道具である。だから「この仮定は非現実的ではないか」は、それ自体では批判にならない。効く批判は「その単純化は、いまの問いにとって重要な何かを捨てていないか」のほうだ。ミルトン・フリードマンは1953年の論文で、モデルは仮定の現実味ではなく予測の当たり方で評価すべきだと論じた。この立場には反論も多いが、モデルが写生ではない点は争う両側が共有している。

単純化の最も基本的な形が、他の条件を一定として考えるという操作である。価格が上がれば需要量は減る、と言うとき、所得も好みも他の財の価格も動かないと仮に置いている。現実には何もかもが同時に動くのだから、経済学の命題は常に「他が動かなければ」という但し書きつきで読まねばならない。その但し書きを外して引用されたとき、経済学は的外れな主張に見える。

人は誘因に反応する

経済学が現実について言えることの多くは、たった一つの命題から出てくる。人は誘因に反応する、という命題である。これは人間が計算高いという人間観の表明ではない。制度や価格が変われば行動もその方向へずれる、という観察にすぎない。そのずれは、制度を作った側の意図としばしば食い違う。

1975年、経済学者サム・ペルツマンは自動車の安全規制を調べて奇妙な結果を報告した。安全装備は、事故が起きたときの死亡率を確かに下げていた。ところが装備が普及しても運転者の死者総数は期待ほど減らず、歩行者の死者はむしろ増えていた。彼の説明はこうだ。安全になった運転者は、その分だけ荒っぽく運転する。装備が下げたのは事故の代償であり、代償が下がれば人は危険をより多く買う。これが後にペルツマン効果と呼ばれるものだ。

同じ構図は各地で見つかる。メキシコシティは1989年、大気汚染を減らすためにナンバープレートの末尾の数字ごとに曜日を決めて走行を禁じた。市民は車の利用を減らす代わりに、末尾が違う二台目の古い中古車を買った。走る車は増え、古い車ほど排気は汚い。規制後も大気は改善しなかったと報告されている。植民地期インドで、コブラ駆除のために懸賞金を出したところ住民がコブラを養殖しはじめたという逸話も——真偽は定かでないが——同じ教訓を伝える。懸賞金が買っていたのは駆除ではなく、コブラの死骸だったのである。

だから経済学者は政策を読むとき、「良いことを目指しているか」ではなく「誰のどの行動の代償を、いくら変えるか」を問う。善意は誘因を上書きしない。

平均ではなく限界で考える

三つ目の道具が限界である。何かを決めるとき、経済学者が見るのは総額でも平均でもなく、もう一単位だけ増やしたときに何が変わるか、である。

なぜ平均では駄目なのか。アダム・スミスが1776年に残した謎が教えてくれる。水は生きるのに不可欠なのにほとんど値がつかず、ダイヤモンドは無くても困らないのに途方もなく高い。この逆転をスミス自身は解けなかった。答えが出たのは十九世紀後半、限界という発想が入ってからだ。人が水に払う額を決めているのは水全体の値打ちではなく、いま手元にもう一杯足された水の値打ちである。水が豊富な社会では、その一杯はほとんど何ももたらさない。希少なダイヤモンドは、もう一粒の値打ちが高い。総効用と限界効用は別物であり、価格を決めるのは後者である。

限界で考えることの裏返しが、埋没費用を勘定に入れないという規律だ。映画館で二千円払い、三十分見て退屈だと分かったとする。その二千円は席を立っても座り続けても戻らない。ならば決定から外すしかない。残り九十分を退屈な映画に使うか他に使うか、それだけが問いだ。「ここまで払ったのだから最後まで」という感覚は強いが、それは戻らない金を理由に機会費用の高いほうを選んでいる。

経済学は実験できるのか

最後に、この学問の弱点に触れておく。物理学者は条件を揃えて実験できるが、経済学者は増税した日本と増税しなかった日本を並べて比べられない。歴史は一度しか起きないからだ。ではモデルの当否は何で確かめるのか。

一つの答えが自然実験という発想である。制度の変更や州境が、研究者の代わりに人々を二つの群れに分けてくれることがある。その偶然を実験に見立てるのだ。1992年、デヴィッド・カードとアラン・クルーガーは、最低賃金を上げたニュージャージー州と、上げなかった隣のペンシルベニア州の飲食店の雇用を比べた。何が見え、なぜ論争を呼んだかは第4講で扱う。ここでは、経済学が実験できないと諦めず、現実の中に実験の代わりを探し続けてきたという構えだけ覚えておけばよい。

道具は揃った。機会費用、誘因、限界、そしてそれらを収めるモデル。次の第3講ではこれらを市場という舞台に持ち込み、価格とは何を伝える信号かを問う。

モデル
現実を単純化して特定の問いに答えるための道具。現実の複製ではないので、仮定の非現実性それ自体は批判にならず、問いにとって重要な要素を捨てていないかが問われる。
他の条件を一定として
ある変数の効果を見るために、他の要因は動かないと仮に置く操作。経済学の命題はすべてこの但し書きつきで読む必要がある。
インセンティブ(誘因)
人の行動の代償や見返りを変え、行動をある方向へ向かわせるもの。制度の意図した結果と実際の結果がずれるのは、たいてい誘因の設計が意図と食い違っているからである。
限界効用
もう一単位だけ消費を増やしたときに追加で得られる満足。総効用とは別物で、価格を決めているのは総効用ではなく限界効用のほうである。
埋没費用(サンクコスト)
すでに支払われ、どう決めても取り戻せない費用。取り戻せない以上、これからの意思決定には含めてはならない。
「経済学のモデルは仮定が非現実的だから信用できない」という批判は、どこが的を外しているか。

モデルは現実の複製ではなく、特定の問いに答えるための道具だから。地図は地形を写生しないからこそ使えるのであって、縮尺一分の一の地図は役に立たない。有効な批判は「非現実的だ」ではなく、「その単純化は、いま立てている問いにとって重要な要素を捨てている」と具体的に示すものである。

自動車の安全装備が普及したのに、事故死者が期待ほど減らなかったのはなぜか。

安全装備は事故の代償を下げるが、代償が下がると人はより多くの危険を買うから。サム・ペルツマンが1975年に報告したこの現象では、運転者の運転が荒くなり、装備で守られない歩行者の死者はむしろ増えていた。人は誘因に反応するため、制度の意図した結果と実際の結果はずれうる。

水は生きるのに不可欠なのに安く、ダイヤモンドは無くても困らないのに高い。なぜか。

価格を決めるのは総効用ではなく限界効用だから。水が豊富な社会では、もう一杯の水がもたらす追加の満足はごくわずかであり、人はその一杯分にしか支払わない。ダイヤモンドは希少なので、もう一粒の追加の値打ちが大きい。平均や総量ではなく限界で考えると、この逆転は逆転ではなくなる。

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