「経済学=お金の話」という誤解
経済学と聞いて、株価や景気やGDPを思い浮かべた人は多いだろう。その連想は間違いではないが、経済学が何の学問かを言い当ててはいない。もし経済学が「お金を扱う学問」なら、貨幣を使わない社会には経済学が存在しないことになる。だが実際には、貨幣を持たない共同体の資源配分も、家庭内の家事分担も、経済学の対象になる。
学問には二通りの決まり方がある。対象で決まる学問と、問いの立て方で決まる学問である。日本史は「日本の過去」という対象が学問を定義している。これに対して経済学を定義しているのは対象ではなく、問いの立て方のほうだ。
この点を最も切れ味よく述べたのが、イギリスの経済学者ライオネル・ロビンズである。彼は1932年の著作で、経済学とは「複数の用途を持つ希少な手段と、目的との関係としての人間行動を研究する科学」だと定義した。ここにお金は一言も出てこない。出てくるのは、目的と、希少な手段と、その手段が他にも使えてしまうという事実だけである。経済学が扱うのはこの三つが揃った場面すべてであって、そこに紙幣が介在するかどうかは本質ではない。
希少性 — 経済学の出発点
希少性とは、人が望むものに対して、それを満たす資源が足りていないという条件を指す。ここで注意したいのは、希少性が「貧しさ」とは別の概念だということだ。豊かな社会にも希少性はある。年収が十倍になっても、一日は二十四時間のままである。むしろ豊かになるほど、時間という資源の希少性は際立つ。
希少でないものは経済学の問題にならない。呼吸する空気は、少なくとも通常の状況では誰の取り分も減らさずに全員が使えるため、「誰にどう配分するか」という問いが立たない。ところが同じ空気でも、汚染を吸収する大気の能力には限りがある。だから排出枠は経済学の問題になり、空気そのものはならない。この線引きこそが、経済学が何を語れて何を語れないかを決めている。
希少性があると、必ずトレードオフが生まれる。あちらを立てればこちらが立たない、という関係である。予算を医療に回せば教育に回せない。今日を勉強に使えば遊びには使えない。経済学者が「魔法の杖はない」と繰り返し言うのは、悲観からではない。希少性という前提から論理的に出てくる帰結を述べているだけである。
選択には必ず値札がつく — 機会費用
トレードオフがあるということは、選ぶという行為そのものに費用がかかるということだ。この費用を経済学は機会費用と呼ぶ。ある選択をしたときに諦めることになった選択肢のうち、最も価値の高いものの価値である。
具体的に考えよう。無料のコンサートの招待券をもらったとする。支払った金額はゼロだから、費用はゼロだろうか。ここで、同じ時間に時給千円のアルバイトを四時間できたとする。すると、この「無料の」コンサートには四千円の費用がかかっている。あなたが手放した四千円は、財布から出ていかなかっただけで、確かに失われている。
この考え方は、大学に通うことの費用を考えるとさらに効いてくる。授業料が年に百万円だとして、費用は百万円か。四年間フルタイムで働いていれば得られたはずの賃金も、進学の費用に含まれる。だから大学教育の本当の費用は、多くの場合、授業料の何倍にもなる。逆に言えば、不況で就職口が少ない時期には、進学の機会費用は下がる。不況期に大学院の志願者が増えるのは、この計算が効いているからだ。
経済学者ミルトン・フリードマンが広めた「タダの昼食はない」という言い回しは、この機会費用のことを言っている。誰かが昼食代を払っていないように見えるとき、費用が消えたのではなく、誰かに、どこかに、別の形で転嫁されているだけである。
だから経済学は市場の外にも広がる
希少性と選択という問いの立て方をすると、経済学の射程は市場の外へはみ出していく。実際、二十世紀後半の経済学はその方向へ大きく踏み出した。
アメリカの経済学者ゲーリー・ベッカーは、結婚、出産、教育、差別、そして犯罪といった、それまで経済学の管轄外とされていた領域に、この枠組みを持ち込んだ。犯罪者も、捕まる確率と刑罰の重さと得られる利益を天秤にかけて選択している、と考えてみる。すると、刑罰を重くするのと検挙率を上げるのとでは、どちらが抑止に効くかを比べられるようになる。ベッカーはこの拡張で1992年にノーベル経済学賞を受けた。
もちろん、この拡張には強い批判もある。人間はそこまで計算高くない、という反論は当然出てくるし、それは第10講で扱う行動経済学の出発点でもある。だがここで押さえてほしいのは、経済学が「人はいつも合理的だ」と信じている学問だということではない。希少な資源の配分という角度から物事を見たら何が見えるかを執拗に問う学問だ、ということである。その角度は万能ではないが、他の角度からは見えないものを見せてくれる。