合理的経済人という仮定の綻び
第1講で述べたとおり、経済学は「人はいつも合理的だ」と信じている学問ではない。だが経済学が長く使ってきたモデルの中の人間は、一貫した好みを持ち、手に入る情報を使い、間違えても系統的には間違えない存在だった。この仮定は便利だから使われてきた。厄介なのは、実際の人間の間違え方が、偶然ではなく決まった方向に偏っていたことである。
それを実験で示したのが、心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーだった。二人が1979年に発表したプロスペクト理論によれば、人は結果を絶対的な水準ではなく、ある参照点からの変化として評価する。年収が五百万円であること自体ではなく、去年より上がったか下がったかが効く。しかもその変化は上下で重みが違う。同じ一万円でも、失う痛みは得る喜びのおよそ二倍に感じられる。これを損失回避と呼ぶ。
参照点が動けば選択も動く。二人のフレーミング効果の実験がそれを鮮やかに示した。同じ手術の成績を「生存率九十パーセント」と伝えるか「死亡率十パーセント」と伝えるかで、患者も、そして医師でさえ、手術を選ぶ割合が変わる。内容は一文字も違わない。違うのは言い換えの向きだけである。
カーネマンは後にこの偏りを二重過程理論として整理した。速く自動的に働く直観と、遅く努力を要する熟慮があり、日常の判断のほとんどは前者が引き受けている。リチャード・セイラーはここから政策を作った。人は現状に留まりやすく、いま手にしているものを手放したがらない。お金を用途ごとに別の財布に仕分けて考えもする。ならば年金を、入りたい人が申し込む方式から、入りたくない人が抜ける方式に変えるだけでよい。命令を一つも増やさずに加入率は跳ね上がる。セイラーはこれをナッジと呼んだ。
ここで位置づけを間違えてはいけない。行動経済学は経済学を否定したのではない。希少性のもとでの選択という問いはそのままに、選ぶ主体の描き方を現実へ寄せたのである。カーネマンは2002年、セイラーは2017年にノーベル経済学賞を受けた。壊した者としてではなく、直した者として遇されたということだ。
市場は真空には浮かんでいない
需要と供給の図は、契約が守られ、財が奪われず、通貨が明日も通用する世界を黙って前提している。その前提そのものを研究対象にしたのがダグラス・ノースである。ノースは制度を「ゲームのルール」と呼んだ。所有権、契約法、そしてそれらを支える慣習と信頼である。
ダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンは『国家はなぜ衰退するのか』(2012)でこの見方を押し進め、制度を二種類に分けた。少数者が富を吸い上げる収奪的制度と、多くの人に参加と報酬の道を開く包摂的制度である。彼らが冒頭に置いたのが、アメリカとメキシコの国境に貫かれたノガレスという町だ。北と南で地理も気候も、住む人の言葉も家族の来歴もほとんど同じである。それでも所得は数倍違う。地理でも文化でも説明のつかない差を残すのは、どちらの国の制度の下にいるかという一点だけだ。
第6講のエリノア・オストロムが示したのも同じことだった。市場は真空には存在しない。法と信頼と国家に埋め込まれていて、その土台が崩れれば価格機構も動かない。
測れるものしか測らないという偏り
経済学は効用という言葉で人の満足を扱ってきたが、効用は体温のように測れるわけではない。測れないものを扱う手つきそのものを問い直したのがアマルティア・センである。センは、豊かさを所得で測る習慣に対して、大事なのは何を持っているかではなく何ができるかだと論じた。これがケイパビリティ・アプローチである。同じ所得でも、障害のある人が街を移動できるかどうかは違う。この考えは、所得と並んで寿命と教育を測る国連の人間開発指数に結実した。
センの1981年の飢饉研究はさらに鋭い。彼は1943年のベンガル飢饉を調べ、食料の絶対量は足りていたのに数百万人が死んだことを示した。人が死んだのは食料がなかったからではない。賃金が落ち、価格が跳ね上がり、食料を手に入れる権原が失われたからである。飢饉は自然災害というより、分配と権利の失敗として起きる。
効率は価値中立か
ここまで来れば、最後の問いは避けられない。効率という基準そのものが、一つの価値なのではないか。第9講で見たパレート効率は、誰も損をせずに誰かが得をする余地の有無を言うだけで、その果実が誰に渡るかについては何も言わない。一人が全部持つ配分もパレート効率的でありうる。アーサー・オークンが平等と効率の間に取引があると言ったとき、彼はその取引をどこで結ぶべきかまでは、経済学者としては言えなかった。
これは経済学の欠陥ではなく、担当範囲である。経済学が答えられるのは「その選択にどういう費用がかかるか」までだ。「では何を大切にすべきか」は政治哲学の問いであり、政治哲学 第4講の功利主義や第6講のロールズが引き受けている。境目を知らずに経済学を振り回すと、費用の計算がいつのまにか価値の宣告にすり替わる。
第1講の最後にこう書いた。経済学の角度は万能ではないが、他の角度からは見えないものを見せてくれる、と。十講を終えたいま、その両方が手元にあるはずだ。機会費用、インセンティブ、限界、価格、比較優位、外部性という道具は、それなしでは絶対に見えないものを見せる。同時に、それらは人の間違え方を単純化し、制度を背景に押しやり、測れないものを黙って切り捨てる。効き目と限界の両方を知っている人だけが、この角度を正しく使える。